記事一覧

セピア色にはならない思い出。

平成22年1月19日
於:(自宅)


私は東村山市在住の「高橋 千恵子」と申します。70歳になりました。

昭和15年1月生まれですから太平洋戦争が始まった昭和16年12月当時の記憶はありませんが、昭和18年に弟が生まれて以降のことは、多少は記憶しております。

当時、両親は私たち姉弟と共に東京の渋谷区に住んでいました。ある日、誰かに抱っこされて電車(今の都電)に乗っていたとき、今の皇居前に通りかかると電車の速度がゆっくり落ちてみんなが宮城(皇居)に向かって「遥拝」していたこと、近所のお兄さんの出征を祝う壮行会での大人たちの賑わいなどは覚えております。

昭和20年3月の東京大空襲の後中野区に転居しました。
当時病んでいた父に代わって母が防災訓練などに出ていたと聞いております。
あれはたしか夜でしたが、母に背負われて防空壕に出たり入ったりしていた時、ふと上を見上げたら黒い空がキラキラ光ってそれはきれいで子供心に天から光が降ってくるのを「明るくてきれい」と感動したのですが、その光るものは焼夷弾だったのです。
3月の大空襲の後、続いて5月にも東京には大空襲があったのですから5月の大空襲の夜のことなのでしょう…多分幼い私は恐怖すら判らずその夜の明るくなった空のキラキラだけが鮮明な記憶となったのでしょう…。
そして、両親は何とか東京で頑張っていたかったそうですが、強制疎開となりました。

ある日、私たち家族が住んでいた2階建ての家の雨戸も硝子戸も障子も全部取り払われて、太い綱が家のあちこちの柱に括りつけられていました。多勢のおじさんたちが「エイャー」と大声を出してその太い綱を引っ張ると、家はガラガラっと崩れてしまいました。
もうもうと砂埃がたち、それがおさまると、私の大事にしていたお人形や母のお琴や大正琴が現れました。
きっと疎開先には必要最小限の物しか持って行けないので家財の多くは捨ててしまったのでしょう。
私のお人形も「可哀いそうだけど連れて行けないのよ」と母親に言われたのを覚えています。

父親の郷里の福山の奥に疎開したのですが、不思議な事にその道中のことはまったく記憶していないのです。
ただ長旅が身体に障ったらしく田舎に移ってからの父がほとんど床についておりましたことと、時々は弟を膝に抱いて遊んであげていたのを覚えております。

その日は朝からとてもよく晴れて真っ青な空にお日さまがカンカン照っていました。
外で遊んでいた私はお昼ご飯の頃に家に帰ってくると父と母がタンスの前にきちんと座って膝に手を揃えて下を向いていました。
「どうしたの?」と聞く前に両親が泣いているのに気付きました。私はびっくりして声も出ず子供なりに異変を感じて黙って両親の背中を見つめていたように思います。
今思えば両親はタンスの上のラジオで玉音放送を聞き、日本の敗戦を知って落胆していたのでしょうね。
そして子供にも戦争が終ったこと、日本が負けたことを知らされました。
この日が昭和20年8月15日だったのです。
家の前に大きな井戸がありました。
近所のおばさん達は野菜を洗ったり、お米を研いだりしながら、「広島のほうに新型爆弾が落ちたらしい…」とか「東京も大阪も焼け野原になったそうだ…」とかひそひそ話していました。
私は父親に「いつ東京に帰るの?」と訊くと「当分は帰れそうにない」というようなことを言っていたように思います。      

目前に迫った私の小学校入学のお祝いに親戚から赤いランドセルが贈られてきました。
私にそれを背負わせて、父は寝たまま眺めながら「学校へ入ったらよく勉強するように」、「先生の話はよく聞くように」、「本をたくさん読むように」などと言っておりました。

そして昭和21年2月の末頃に父は亡くなりました。
真夜中に母の悲鳴のような声に起され、弟と共に父の枕元に連れて行かれ「お父さんの顔をよく覚えておきなさい」と言われましたが、父は目をとじて眠っているだけで私にはまだ父親の死を理解できていなかったのです。
大勢の人が家に集まっていたこと、大人が泣いていたことなどの記憶しかありませんでした。

父の死から40日後に私は小学校へ入学いたしました。
校庭の満開の桜に迎えられたその日の晴れやかな気分は今でも鮮やかな記憶です。
敗戦後初めての入学ですからまだそれまでの教育制度が継承されていたようです。
広い講堂の一角には御眞影が祀られ普段は深紅のビロウドのカーテンのようなもので覆われておりましてその前を通る時には必ず礼をしなくてはいけないと教えられました。
小学校2年になってからでしょうか、渡り廊下に生徒が列を作って並んでいるところへ白衣を着て腕に腕章を巻いた大人が数人来て、並んでいる子供達の頭と云わず身体と云わず白くてツンと鼻をさす匂いの粉のようなものを振りかけるのですが、それがDDTだったのです。

田舎でも戦後の暮らしはどこの家庭も大変でした。
お風呂など銭湯にいっていたように思います。
銭湯はまるで芋を洗うような込み具合でした。
父の死後、東京育ちの母の苦労が始まりました。
父は日本の敗戦を予測していたらしく、疎開するにあたって資産をお金に換えたそうです。
後年、私や弟名義の貯金通帳数冊を母に見せてもらったことがありますが、病気だった父は自分に万一のことがあっても二人の子供が成人するまでの用意はしていてくれたのでしょう…。
ところが戦後の預金封鎖と新円切り替えでその預金通帳は紙くず同然となってしまい母は途方にくれたそうです。
こうして大半の日本人は戦争により命を失った人、家族を失った人、財産をうしなった人などとなりましたがそれでも「もう爆弾は落ちてこない」という安堵だけを胸に立ちあがったように思えます。当時の日本人なら誰でも経験しているでしょうが、母もお米を手に入れるために往複何キロも歩いて遠くの村まで買い出しに出かけていました。
ある日母は夜遅く背中が曲がるほどの大きなリュックサックを背負って帰ってきました。
次の日母は仕事、私と弟は学校と幼稚園に行っていましたので家は留守でした。母が帰ってきて昨日やっと買ってきたお米がそっくり盗まれていることに気付きました。
母はわあーっと大声で泣き崩れました。
子供の前もはばからずに母は泣き続けておりました。
その姿を見ながら私は母がかわいそうで「守ってあげなければ」と子供心に強く思ったのです。

その後、小学校5年生の二学期を終えて東京に戻ってきましたが、母が先ず私を連れて行ったところは新宿駅の西口でした。
駅前はバラックの店が並んでいましたが、ほとんどが野っぱらで遠く代々木のほうまで見渡せて円形のガスタンクが二つ見えたのをはっきりと覚えています。
戦前、私たち家族が代々木に暮らしていた当時のご近所の方や知人たちの多くは他へ移り、懐かしい人たちに会えなくなってしまい消息の分からないままの人もいらしたようです。
後年、母は新宿に高層ビルが林立してすっかり戦前の面影が消えた故郷の街を「見たくない!」と言って近づきたがりませんでした。戦前の新宿や代々木辺りはとても良い町だったそうで、私も代々木で生まれております。

戦争は人々から多くのものを奪い取ってしまいますね。
65年経っても決してセピア色にはならない思い出です。